さて、この話の前に私と宗教の関わりについて説明しなければなりませんね。
私の両親は「大本」の流れを汲むある新興宗教の信者でした。
そのため子供の頃からいろいろなことをやらされていました。
特に文句も言わずに親の言うことをきいていましたが、内心は苦痛でしたね。
毎日正座させられて訳のわからない言葉を言わなければいけなかったり、
宗教の行事には一緒に行かなければならなかったり、
特に、お年玉を全額その宗教の物を買うために使わされたことと、
貯金してためた6万円ほどのお金を親と一緒に行く聖地巡礼の旅行費用にされて、自分の好きに使えなかったことは宗教に対する嫌悪感を抱かせるには十分すぎました。
当然のように、親元を離れてからはこの宗教との関係を断ち、数十年が経過しました。
今回スピリチュアルに興味が出てきたこともあり、また親はまだ熱心な信者であることから今のこの教団がどうなっているのか調べてみました。
なんかいろいろと変わってるみたいです。
そしてふと教祖の本名と顔写真をみたとたん
ドン!
またみぞおちのあたりがぐるぐると動き出しました。
5分、10分たっても収まりそうにありません。
とりあえず落ち着こうと思い外に散歩に出てみました。
それでも一向に収まりません。
訳が分からないのでAさんに電話してみました。
僕「名前と顔写真を見たとたん、またぐるぐる回りだしたんだよね。ちょっと息苦しい感じ」
Aさん「そこにブロックがあるんじゃない?子供の頃の自分を癒しにいってるんじゃ?」
僕「教団については微妙だけど、この人の考え方とかは割と好きなんだよね」
僕「そもそも子供の頃興味無かったので教祖の名前なんて知らなかったし」
Aさん「その人の考え方が好き ということだけでいいと思う」
その日はちょっと息苦しいままベッドに横になりました。
「この人はそこまで大々的にやるつもりはなかったけど、周りに祀りあげられてしまったんじゃないかなぁ。」
「あと、どんな人でも救うのは間違いだった。やっぱり救えない人は救えない」
こんな風な考えが頭をよぎりました。
翌日になってもあまり収まっていません。
「この人は自分と何か関係があるんだろうか?」
いろいろと調べてみました。
この人の生い立ち、家族、教義などなど。
ほんと、余計な事ばっかり考えてましたね。
さらに翌日くらいになると自分の中で一つの結論がでてきました。
「もしこの人が自分と関わりがあったとしても、今を生きているのは自分なのだから、自分の人生を生きよう」
こう決めた後は、みぞおちのぐるぐるも収まってきました。
「こんなことをいつまでも悩んでられない、早くケリをつけたい」って気持ちもあったかなー。
とはいえ、こんなことがあったので、なんとなく関係ありそうな「国常立尊」についてはこの先、ちょっと特別な感情で向き合っていくことにはなります。
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